子供の教育はどうする? 駐妻思い出し日記 その6

こんにちは
東京江東区暮らしの仕組みづくりサポーターライフオーガナイザー下村志保美です。

毎週日曜日はわたしのことを書いています。

2000年7月から2005年1月までサラリーマンの夫の転勤に伴い、中東カタール国ドーハで駐妻していました。
当時ことを振り返っています。

駐妻思い出し日記 その1(2000年7月〜)
引っ越し手続き諸々〜駐妻思い出し日記 その2(2000年5月〜7月)
「日本のもの」が大切すぎた〜駐妻思い出し日記 その3(2000年10月〜)
当時の生活〜駐妻思い出し日記 その4(2000年12月〜)
ないものばかり数えていた〜駐妻思い出し日記 その5

今日は子供の教育について書きたいと思います。
娘が学齢期になった時、すでに日本人学校はなく、イギリス系かアメリカ系のインターナショナル校しか選択肢はありませんでした。

目次

わぁ英語を喋った!

私がドーハに行った当時でどれくらいの日本人がドーハにいたのでしょうか?
はっきり覚えていませんが、まだ日本人学校はありました。

しかし日本人幼稚園はなく、娘が通える幼稚園保育園の選択肢はほぼありません。
まずはイギリス系の保育園に通いました。

日本語も十分に喋れない時期ですから、いきなり英語の世界に入っても問題なく受け入れ毎日楽しそうに通っていました。

数日内に英語が口から飛び出すようになり、「わぁー英語を喋ったぁ!」と私たち夫婦も喜んでいました。

夫婦ともに英語力にコンプレックスを感じていた私たちは「帰国子女だね」「英語には一生困らないね」とただ単に安心していました。

2016年02月27日20時54分32秒
(現地の家でもお雛様を飾っていました。)

4歳で小学校に

保育園に1年通い6月生まれの娘が4歳になったあとの9月に、小学校に入りました。といっても一年生ではなくレセプションクラス。
すでに日本人学校の撤退も決まり、選択肢はイギリス系の学校が二つとアメリカンスクールのみ。

(現地校はイスラム教徒しか入れないので選択肢にはありません。)

アットホームな雰囲気が気に入りイギリス系の学校の一つを選びました。

あくまでも「私立」なので一応校長先生との面接がありましたが、適当な時に校長先生にアポをとって面接をしてもらうスタイル。
のんびりしたものです。

ピカピカの一年生?

その1年後5歳になったばかりの娘はいよいよ小学1年生に。
日本より1年半早い小学生です。

しかし日本でいう入学式なども特になく「授業の開始は何日からだからねー」というお知らせのみです。

1学年3クラスぐらいあったのでしょうか?(はっきり覚えていません)
掲示板に貼られたクラス分けの表に、「国籍」「宗教」の表示があるのをみて「インターナショナルだな」と思ったことを覚えています。

2016年02月27日20時54分31秒

(学校行事の「エリザベス女王様を祝う日」です。)

クラスのなかは本当にインターナショナル

クラスメイトの国籍は実に様々。
肌の色、目の色、宗教、食べ物・・・

「みんなちがって当たり前」をこの時期に体で学ぶことができた経験はとても良かったと思います。

また放課後お友達の家に遊びに行って出てくるおやつやご飯、その違いも楽しかったようです。

2016年02月27日20時54分34秒

(男の子達に囲まれておままごと中)

言葉の問題

この頃成長とともにでてきた悩みが言葉のこと。
9.11の影響を受け、日本人もかなり少なくなり日本人学校も撤退。

学校も英語、テレビも当時は日本語放送を見れませんでしたから、日本語に触れるのは家庭のなかで私たちと話す時だけです。
日本語の本も手に入らない。

どんどん日本語を話そうとしなくなりました。

だからといってネイテゥブの子達と同じように英語ができるわけではない。

学校で「成績」というものが付き始めると、ため息が出てきます。
特に保護者面談では「家庭のなかでも英語を使うように」「お母さんも英語を習ったほうがいい」など言われます。

算数の授業だって問題文の意味がわからないから問題が解けない・・・。

当時まだ5歳。日本では成績と無縁の幼稚園児のはずなに・・・。

3歳の頃のように「英語をしゃべった〜」「発音が超キレイ」と単純に喜べなくなってきます。


不定期に続きます。





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